生態写真に基づいてどこまで双翅目の同定が可能か 2009年3月 三 枝 豊 平 この掲示板(一寸のハエにも五分の大和魂)では,双翅目の主に生態写真に基づく同定 の依頼が多く寄せられています.このような同定については,これまで幾度か同定する側 からの問題点が寄せられています.今回も田中川さんからTrichoceraが翅脈だけで同定可 能かどうかの問い合わせが行なわれています.アーチャーンさんからは被写体を殺さずに (標本にしないで)おきたいという意向も示されています. 双翅目に限らず生物の名前を知ること,また名前がなければ名称を付けることは,難し く言えば,自然認識の最初の必須の基礎であることは言うまでもないことです.しかし, 残念ながらこの基本が,生物学ではしばしば人々,特に生物学者と言われる人々の脳裏か ら消えかかっているのが嘆かわしい現状といえます.分子系統であろうと,DNAバーコー ディングであろうと,はたまたES細胞であろうと,生物の名前を知る,名前を付けるとい う科学がなければ,全く成立しないところです.名前を知ることを通じてさらにその生物 のさまざまな側面,形態,分類的所属,系統,行動,生態,生理などなどを調べ,自然認 識を深め,情報を交換することが可能になります. この掲示板で,双翅目の名前を尋ねられる方は,双翅目談話会の会員のように双翅目に ついてかなり詳しく学界の状況を知っている人も,また,たまたまこの掲示板があること を知って野外で偶然撮影したハエなどの名前を知りたいという人もあるようです.いずれ にしても,名前を知るということは,もっとも基本ですので,名前を知った方々がその知 識をどのように今後生かされるかはさまざまであっても,できるだけその希望に応えるこ とには,双翅目関係者としては積極的に協力したいものです.それを通じて日本の双翅目 の知見が少しずつ増えていき,また双翅目に興味を持つ人々が多くなっていくことが期待 できるからです. 前置きが長くなりましたが,双翅目の名前を知るための特徴について,投稿される方々 がよくご存知でないために,知ろうとする被写体などの双翅類の名前(所属)がどこまで わかるのか疑問をもたれています.それで,そのあたりを簡単に説明しておくことも,意 味があるのではないか,と思って以下に示しておきます. 1.写真は鮮明であること.これはもっとも基本です.写真の鮮明度で同定の精度は決ま ります.不鮮明な写真ではせいぜい双翅目の亜目がかろうじてわかるということもあり ます.さらに,撮影場所と年月日と時間は必須です.これは同定のための情報として重 要ですから,必ず付記してもらいたいと思います.また,この情報は学問上で重要なデ ータになるものもありますので是非お願いしたいところです.双翅目の場合には,場所 が特定されると採集者が殺到して,その種の保全が危うくなると言うようなものはほと んどないので,是非撮影情報を知らせてもらいたいと思います. 2.なるべく識別する形態的特徴が撮影されていること.これははじめての方には難しい 注文です.しかし,(1)翅が翅脈を含めて鮮明に撮れていること,(2)できれば側面 の写真があること,に注意してもらうと,かなり同定の助けになります.ハエ型のグル ープでは胸部背面の詳細な写真もかなり有力な同定補助になります. 3.一般的な撮影による写真で,科の段階までわかる群は糸角亜目(カやガガンボなどの 仲間),直縫短角類(アブ類),ヤリバエ,ヒラタアシバエ,ノミバエ,ハナアブ,アタ マアブなど主に無額嚢類や一部の額嚢類(いわゆるハエ)です.しかし,キノコバエ上 科のように,従来ひとつの科にまとめられていたものが,数科に分割されている場合は, 翅脈相がはっきりと写っている写真でなければ,科の判定はかなり困難です. 一方ショウジョウバエなどを含む多くの無弁翅類や有弁翅類の科については,多くの 場合に写真による科の判定はかなり困難です.ヤドリバエ科,ニクバエ科,クロバエ科 なども翅脈相が写っていても,科を分ける特徴が通常の撮影では分かりにくい場合がし ばしばですから,確信を持って科を言い当てるのはかなり困難です. 4.科まで分かって次に属を同定しようとする場合に,普通の写真で属までわかる科は著 しく限定されます.複数の属がある科では,科がわかっても多くのもので属は正確に判 定できない,と言うことになります. 一方,その科に含まれる属の数が著しく少ないか,唯一つしかないような場合は3で 科が分かれば多くの場合に必然的に属がわかります.例えば,コシボソガガンボ科には 2属,PtychopteraとBittacomorphellaしか日本に分布しないので,外観的に全く異な る両属を写真で識別することは容易です.また,ヤリバエ科 は日本には未記載種も含め て2属だけですので,属が分かります.ガガンボダマシ科は脚の?節基部の鮮明な写真 があれば,TrichoceraかParacladuraかの判定が可能です.シダコバエ科の日本産は Teratomyza1属だけですので,これも必然的に属がわかります. 1科の中で属の数が多くても,属によって体形がかなり決まっている場合は,写真で も属の所属が分かります.たとえばオドリバエ科ではたいてい属の判定は,写真,特に 側面からの写真で可能です.しかし,一方でオドリバエ科に近いアシナガバエ科では写 真で属の判定ができるのはかなり限定されてしまいます. 多数の属を含む科の場合でも,特徴的な属,例えば,ミギワバエ科のカマバエ属 Ochthera (捕獲脚の前脚),ショウジョウバエ科のカブトショウジョウバエ属Stegana (甲虫を思わせる外観),アシナガバエ科のキイロアシナガバエ属Neurigona(多くは黄 色い体色と拳状の♂交尾器や垂直面に静止する姿勢),ハナアブ科のチビハナアブ属 Sphegina(体形と後脚の形状),イエバエ科のクキイエバエ属Atherigona(側面写真に 現れる角張った前額と顔面の境界など)などでは,括弧内に示した顕著な特徴が写真に 写っていれば属までの同定が可能になります. 5.属まで分かって,次に種を同定しようとする場合に,種数が多い属の場合には,普通 の写真で種までわかるというものは著しく限定されます.この段階では,せいぜいおお よその種群がわかる,この種らしい,程度の判定しかできません.双翅目のほとんどの 属では♂交尾器の詳細な形態を観察しないと種の正確な同定は不可能です. しかし,その属に含まれる種の数が著しく少ないか,唯一つしかないような場合は4 で属が分かれば必然的に種がわかります.例えば,ハルカ属Harukaのハマダラハルカ, ニセヒメガガンボ属Protanyderusのアルプスニセヒメガガンボとエサキニセヒメガガ ンボ(翅の斑紋がはっきり写っていれば区別可能),コシボソキノコバエ属Leptomorphus のツマグロオオキノコバエなどは容易に種の同定が可能です.しかし,前述のシダコバ エ科のTeratomyzaの場合には,日本本土に生息しているのは同所的な2未記載種だけで すが,これらは顔面の前からの写真がない限り,簡単には種の識別ができません.   一方,属の中で特に顕著な特徴を備えて,ほかの同属種から容易に識別できる場合は 種の同定が可能です.例えば,キノコバエ科のMycetophila属はおそらく日本列島に何 百種かが生息していることは確実です(ほとんど未研究).相互に大変よく似ていて,翅 の斑紋や♂交尾器を観察しないと種の同定は不可能です.しかし,この中でも Mycetophila caudata(多分日本から未記録?,しかし少数ですが採集可能)のように大 型で特殊な形状をした♂交尾器を備えている種は,♂の側面の写真があれば簡単に同定 ができます. 6.以上とは別に例外的な場合がかなりあります.それは概形でおおよそのグループ(科 や属)の見当がついた場合に,その種が極めて顕著な形状や斑紋を備えている場合です. このような種は容易に種の同定が可能です.著しく種の多いガガンボ科(広義)でも顕 著な斑紋を持ったクシヒゲガガンボ類の種,Tipula属の中のクロキリウジガガンボ,モ ンシロクロバガガンボ,キゴシガガンボ,ミスジガガンボなどは鮮明な写真であれは種 の同定が可能になります.さらに同定が著しく難しいヤドリバエ科でもセスジハリバエ のような種は背面の写真で簡単に同定可能です.アメリカミズアブ,コウカアブ,翅の 斑紋のはっきりしたツリアブ類,オオイシアブ,♂のシオヤアブ,一部のハナアブやミ バエなどはこのような例でしょう.   一方,異所的な近似種がある種群の場合には,その群まで分かれば,撮影された場所 の情報があると,それで種まで見当を付けることが可能です. 7.いずれにしても,双翅目を写真だけで種レベル同定することは基本的には困難ないし 不可能であって,写真撮影の場合には被写体の標本を同時に採取することが,種までの 同定を依頼する場合の原則である,と考えていただきたいと思います. どうしても殺すのは意に反すると言う仏心をお持ちの場合には,できるだけ多くのア ングルから詳細な写真を撮影しておくことが肝要です.そのためには,それぞれの双翅 目の科などで,どの形質が重要な分類形質であるかを勉強しておくと,同定に向いた写 真が撮れるでしょう. また,そんなことを言われても,1枚だけ写真を撮ったら逃げてしまってほかのアン グルからは撮影できなかった,と言うこともあります.その場合に撮影場所が自宅から 離れている時は何らかの麻酔剤(エチルエーテル,クロロフォルム,ドライアイス,青 酸カリ殺虫管など)があれば双翅類が動かなくなるまで麻酔して,それから必要なアン グルの撮影をすることが可能でしょう.麻酔するのに,冷却スプレーを利用する方法も ありますが,これは噴射量と噴射間隔によって,冷媒(液体)がハエの体につくと,急 速に体温が奪われて凍死してしまうので,注意が必要です(拙著,「採った虫を逃がさな い吸虫管」,昆虫と自然41(11): 32-35参照).同様に,ドライアイスは冷却+二酸化炭素 麻酔用で,冷凍すると多くの双翅類は死んでしまします.麻酔剤の場合でも冷却スプレ ーでも,脚がまっすぐ下の方に伸ばされた硬直状態になったら,まず生き返ることはあ りません.また,家の庭で撮影する場合は,冷蔵庫(冷凍庫ではない)にいれて,動き が鈍くなったのを撮影するのもひとつの方法でしょう.  以上の諸点を考慮されて撮影し,同定を依頼されることをおすすめします. 2